奥多摩:大虎の住む尾根

2009.Sep.5

9月に入り、ツクツクホウシが一層勢力を拡大していき、草むらから聞こえてくる虫の音も、日増しに大きくなっていく。今年は夏がいつもより短かった気がするが、それでも残暑はまだ続く。

夏から秋へ移り変わるこの時期、各地のモミ林では熱い戦いが繰り広げられる。カミキリ屋なら誰でも憧れる、オオトラカミキリ探しだ。昨年は全国一の採集確率を誇る四国某所へ乗り込み、悲観的な状況の中、かろうじて1♀を手中に収めた。探索中の不思議な落ち着きと、初めて手にする巨体の重さは、今も鮮明に残る。

有名産地で感覚をつかんだら、次は地元で。東京に残る虫仲間にちょっと情報を教えてもらい、四国で今年も開催されるお祭りの盛り上がりを横目に、カミキリ屋のはしくれとして、夏を締めくくる大一番へ。


金曜夜、東京行きの夜行バスに乗り込む。最近は新幹線ばかりだったので久しぶりだ。寄り添いながら眠る若いカップルが視界に入って心が痛くなるが、この悲しみの分だけ、何か良いことがあるだろう。諸事情に対抗しなければならなかった研究室時代には、溜め込んだ悲しみがすべて奥多摩の虫との出会いに変わった。社会人になっても相変わらず虫の世界につぎ込み、オオトラにまで巡り会った。でも今は、悲しみの根本的な解決の方を望みたい。そんなことを考えるうちに、スッと眠りに落ちた・・・。

翌朝6時半、目が覚める。車内放送で、最初の降車バス停である「中央道日野」が案内される。新宿駅南口で降りるつもりだったが、頭の中で地図を広げて計算すると、ふっとひらめいた。

車内トイレの存在を知らずにトイレ休憩を望んでボタンを押した人がいたので、「代わりに降ります。」ということで、6時40分、日野バス停で途中下車。

バス停から歩いて5分、多摩都市モノレール「甲州街道駅」へ。かつてヒメビロウドカミキリ新産地探しで乗って以来、2度目の乗車。

わずか2駅で多摩川を渡って、立川駅へ。これで新宿駅経由に比べて1時間の節約となる。

タイミング良く青梅線が到着したので、乗り込む。青梅での奥多摩行き電車との接続もバッチリで、気分良く目的地を目指す。

いつもの奥多摩駅よりも手前で下車。見事に青空が広がっている。これは、暑くなるぞ。

コンタクトレンズを装着し、サンダルを登山靴に履き替え、手拭いをかぶって、網を長竿にねじ込んで、いざ出発。

教わった登山口から入り、植林の中を淡々と進む。前日に雨が降ったらしく、湿度がかなり高い。

オオセンチコガネが飛んできたので、ネットイン。奥多摩の個体は赤みが強く、裏側は黄緑色で、かなり綺麗。

しばらくすると、尾根沿いにモミを発見。登山道を外れて獣道を辿って登る。

本日1本目のモミ。環境としては良さそうだが、致命的な状況に気づく。

樹皮が濡れたままだ。

四国での話では、樹皮が乾いていることが必須条件。昼過ぎの活動時間までに乾いてくれればいいのだが・・・。

そのまま尾根沿いに急斜面を登っていき、モミの生育状況を確認。

本数はそれほど多くないが、太い木が点在している。

少ないながら、ツガも混じる。

いつしか広葉樹林に入るが、太い木がないところを見ると、そう遠くない昔に皆伐された歴史を持つのだろう。1000年前はどんな山並みだったのか、奥多摩に来ると毎回想像にふけってしまう。

そうこうしているうちに、オオトラの生息痕跡を発見。幹の広い範囲からしたたり落ちるヤニは、真新しい穿孔サイン。

地面付近から二股に分かれているこの木も、両方に穿孔サインがみられる。地形や植生配置もなかなか良さそうなので、ここは有望ポイントとして昼から見回ることにしよう。

さらに進むと登山道に合流する。1ヶ所では厳しいので、この先にも有望ポイントがないか探る。


新しい穿孔サイン。

ヤニの噴出具合を観察する限り、残念ながら幼虫は途中で死亡したようだ。


数年前の羽化脱出孔

ヤニを防ぐため環状に食い進んだ跡に沿って樹皮が浮き、やがて剥がれ落ちる。

モミの立ち枯れが折れて生成したギャップ。かなり良さそうな雰囲気を感じる。

奥のモミは、数ヶ所からヤニが噴出している。

これは、確実に幼虫が材部に穿孔している。遠目には羽化脱出孔が見当たらない。

もしかしたら昨年の四国のように脱出寸前の成虫が待ってるかもしれない。

そんな野望を持って、地上約10mのゴールを目指して幹にしがみつくも、筋力不足により半分まで登ったところでギブアップ。安全に降りる体力すら残っておらず、両腕を擦りむいて地上に降り立つ。

地上に降りて改めてデジカメ画像を確認すると、羽化脱出孔がしっかり映ってた。一体、何のために登ったのか・・・・。オオトラの活動時間まではまだ余裕があるので、気を取り直して先へ進む。

しばらくして、手が届く位置に穿孔サインを発見。

真新しい羽化脱出孔もある。数日前に出たのだろうか。ここも樹皮が濡れていて、オオトラ嬢が降臨するには望みが薄いが、一応、巡回ポイントとして登録しておこう。

そんなところで、時計は12時を回った。これから4時間はひたすらモミの木を巡回するだけ。朝の期待とは裏腹に気温があまり上がらず、30℃を超えていないのが明らかなのだが、ここまで来たからには、やるしかない。

さあ、降りてきてくれ・・・。

ギャップだから上空からも目立つはず。アオタマムシにはもう遅いので、生木に絞ってみていく。

急斜面でも、可能性を感じれば迷わず近寄る。

この直後のことだった。乗っていた石が崩れ、慌てて伸ばした右手も濡れたコナラの幹を滑り、仰向けの状態で急斜面を滑り落ちる。樹冠しか見えない中、必死に何かをつかもうともがくうちに、なんとか体が止まった。

初めての滑落経験。距離としては10mほどしか滑落していないのだが、加速しながら何もつかめずに滑り落ちていく時の恐怖感。限界を超えた右の胸筋の痛みと、ひねった左手首の腫れが、今ここに生きていることを実感させる。

ただでさえ木登りで疲労が蓄積している上半身がさらに痛めつけられたが、こんなことでオオトラ探索を諦めてはいけない。

もう少し暑ければ、こんなところにも来るのだが。

だんだん樹皮が乾いていくのだが、徘徊しているのはザトウムシだけ。

樹皮の色が完全に変わる頃、日差しの色も変わっていた・・・・。

午後4時、タイムアップ。

結局、今年も発生していることを確認しただけで、本体は影も形もなかった。虫仲間のひとりは一昨年ここで採集しているが、別の虫仲間はその直後に3回通って空振りに終わっている。簡単に採れる場所ではないと覚悟はしていたが、予想通りの結果になるとやはり呆然とするもの。

探索途中で採集した虫は、わずかに2種。


ミルンヤンマ

モミの周囲を飛んでいたので、一応ネットインして撮影。


キカマキリモドキ

パンパンに膨れた腹にドキっとしてしまい、ネットイン。

帰り道は、別ルートで。ところどころに小規模なモミ群落があり、オオトラの古い痕跡もみられた。

途中で道を見失ったが、どうにか人里まで降りる。

対岸の山肌を見ると、モミの影が点々と見える。あちこちにホストがあるのに、なかなか出会えないからこそ、「オオトラは狙って採れる時代になった」今でも、カミキリ屋の心をつかんで離さないのだろう。


今日は、完全に敗北。でも、これで良かったのかもしれない。昨年は狙って採れたけど、心の寂しさと向き合うことになってしまった。

「今年は、きっと、何か良いことがあるさ・・・。」

帰り道で見かけたナシの木。果樹園で仕立てられたものにはない、不思議な威厳。

枯葉には、アオマツムシの姿。山里には、一足先に秋の気配が漂い始めていた。

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