奥多摩:亜高山の虎

2015.Aug.7

奥多摩の亜高山帯は東京都の中でも昆虫調査の手が行き届いてない場所のひとつ。1960~1970年代の林道建設時には伐採木目当てで多くのカミキリ屋さんが訪れたらしいが、亜高山帯まで調査の足を伸ばす人はピドニア屋さん以外は極めて少なかったとみられる。そのため、2000年以降も亜高山帯からは東京都初記録のカミキリムシが見つかっている。

今回の狙いである、亜高山帯に住むトラカミキリも東京都未記録種のひとつ。厳密に言えば、原記載論文(Matsushita, 1938)にパラタイプの採集データ「Berg Takao 15 VIII, 1932」があり、「新しい昆虫採集(上)」(京浜昆虫同好会, 1958)でも高尾山に産することになっている。しかし、高尾山のような低山での生息は疑問視され、記録は保留されている(藤田, 1988)。一方、都県境となる雲取山では埼玉県側の記録が存在する(寺山, 1977ほか)。埼玉県側にいるなら、ほぼ同じ環境がある東京都側にも生息はしているはず。院生時代からそう推定していたものの、なかなか挑戦することなく月日は流れていった。

そして今年の夏、佐渡から帰ってきた後に、奥多摩で一足早い挑戦者が現れたことを知った。千葉県からはるばるやってきて、これまで東京都初記録をいくつも発見している方である。今回はあいにく天候に恵まれず敗退したそうだが、手ごたえを掴んだようであった。

「この夏、後輩に日光を案内してもらって採集してから、奥多摩で挑戦しよう」

などと甘く考えていた自分にとって、非常に大きな刺激となった。すぐに登山の準備をして、奥多摩行きの電車に乗りこんだ。


Web上で閲覧可能な参考文献

藤田宏. 1988. 東京都高尾山のカミキリムシ. Special Bulletin of the Japanese Society of Coleopterology, (3) "KUSAMAIA" : 72-93.

Matsushita, M. 1938. Zur kenntnis der Japanischen Ceramnyciden (III). Kontyû, 12(3): 93-96.


23時、奥多摩駅に到着。登山に備え、蛾像収集はせずに眠りにつく。

5時、起床。まだ雲がかかっているが、今日は晴れそうだ。始発バスに乗って、登山口へ。

6時20分、鴨沢登山口に到着。身支度を整え、すぐに出発。

延々と続く緩やかな登り道を進んでいく。

7時40分、堂所に到着。一休みしてから先へ進む。

8時15分、七ツ石山直下に到着。水場で体を冷やしてから、小屋経由で尾根を目指す。

8時40分頃、尾根に出る。日向ではマルバダケブキが相変わらずたくさん生えている。


ナミハナアブ♂

ハナアブも何種類か吸蜜に訪れていて、もっとも個体数が多いのが本種。

8時50分、七ツ石山山頂に到着。初めて登った2006年とコースタイムは一緒だが、疲労度の差に9年の歳月を感じる。

虎の棲む亜高山帯はもう少し先にある。活動が活発になる午後からが勝負となるので、午前中は咲き残った花を探して花掬いをすることにしよう。

林縁にはノリウツギがいくつか生えていたはずなので、咲いている株を探してみる。

日が高くなり、マルバダケブキの花にはチョウやハナアブが次々と飛んでくる。ひときわまぶしく輝くミヤマカラスアゲハの姿もあった。これなら、咲いているノリウツギがあればハナカミキリ類が期待できるかもしれない。

山頂からかなり下ったところで、ノリウツギの花を発見。

盛りは過ぎているものの、まだかなりの花が残っていて、オオトラフハナムグリの姿もある。実は本命の株がもっと先にあるのだが、花が残っているかどうかはわからない。とりあえず咲いているなら、掬ってみよう。


マルガタハナカミキリ


フタスジハナカミキリ


コヨツスジハナカミキリ


ニンフホソハナカミキリ

ハナカミキリ類はそこそこ入り、ピドニアは皆無という状況。あわよくば奥多摩では未採集のブチヒゲハナが入ってくれないかと期待するが、しばらく網を休めて虫の飛来状況を観察する限り、状況はあまり思わしくない。たぶん、日光が当たっていないからなのだろう。

とりあえず、本命の株を目指して先へ進むことにする。

しばらく歩いて、本命のノリウツギに到着。険しい場所に根を下ろしたおかげでニホンジカに食われずに済んでいる。さて、花の状態はどうだろうか。

残念ながら、すでに散っている。

隣接するリョウブはかろうじて花が残る程度。遠目から見ても虫の気配はほとんどないが、一応掬ってみる。


エグリトラカミキリ

ハチはたくさん入ったが、カミキリムシはこの1匹だけ。

ここで粘っても仕方ないので、来た道を引き返す。

さきほどのノリウツギでしばらく粘ってみよう。


ヨツスジハナカミキリ


アカハナカミキリ

まるで、ここは平地のような顔ぶれが網に入る。


マルガタアブ

毛深くて丸くて、マルハナバチを連想させる。初めて見る種で、種名は後日判明。

気がつくと、すでに11時を過ぎている。もう花掬いは終わりにして、今日の本命が住むエリアへ移動する。

亜高山帯の針葉樹林に到着。まずは、この広い林の中から衰弱木や新しい倒木を探すことが重要となる。良い木さえ見つかれば、そこで待っていれば必ず飛んでくるはず。衰弱木、新鮮な倒木を求めて、探索開始。

しばらく歩いて見つけたのはカラマツの倒木。まだ比較的新しそうに見えるが、鮮度は衰弱木よりも枯木に近い。もっと状態が良い木を探した方が良さそうだと感じて、先へ進む。

しばらく歩いて、また倒木を発見。今度のものは遠目からでも古いことがわかった。

亜高山帯の虎はトラカミキリの中では珍しく生木食いで、「衰弱木」がもっとも良いらしい。しかし、条件が整った木というものはそう簡単には見つからない。そもそも、最も可能性が高いシラビソ・コメツガ原生林エリアは特別保護地区で採集禁止。カラマツの植林によって指定を免れたこのエリアが東京都産を狙うわずかな希望なのだが、指定を外れた場所だけあって、衰弱木が常に供給されるような豊かな環境ではないのかも。

また、このあたりの木は程度の差こそあれ、多くの木にツキノワグマの爪痕がある。

根からの水分供給路が細くなれば衰弱への第一歩なのだが、どれも衰弱しているといえば衰弱しているし、元気といえば元気。そのため、的を絞ることができない。

そして、暑さで頭がもうろうとした状態で水分を失った枯木ばかり見ていると、亜高山の虎とはほど遠い虫ばかりが目に映る。


ツヤハダクワガタ♂

立ち枯れの表面を徘徊していた。


ヒゲジロキバチ♀

立ち枯れに止まっていたところを採集。


ルリヒラタムシ

何気なく立ち枯れの樹皮を剥がしたら見つかった。普通は広葉樹につくのだが、なぜかカラマツにいた。

そして、キツツキがつついた穴がある、明らかに古い立ち枯れ。

その穴を覗くと、虫影が見える。


オオクロカミキリ♀

このエリアでは何度か死骸を見ているが、生きている姿は今日が初めて。やっぱり生きている方がいい。

追加を狙って、明らかに古い別の立ち枯れに眼を向ける。この木だと昼間に隠れていそうな場所は根元くらいしかない。

近寄って根元を見ると、予想通りその姿があった。

しかし、脚も触角も不自然で、何か様子がおかしい。

すでに力尽きていた個体だった。産卵を終えて、水分もかなり飛んでしまったのだろう、体はとても軽かった。

気づいてみると、すでに13時半を過ぎている。こんな古い立ち枯ればかり見ていてはダメだと、我に返る。衰弱木を見つけるため、さらに行動範囲を広げる。

14時頃、1本の木の前で足が止まった。樹種はコメツガ。

はるか上方で、白いヤニが噴出している。あれは大虎のものではないか。以前このあたりで蛹室つきの落枝を拾ったことがあるので生息は知っていたが、ここまで新鮮な痕跡を見るのは初めて。標高が高いとはいえ、さすがにまだ成虫のシーズンには少し早いか・・・。

暑さで頭の回転が鈍っているが、この木だけは何か惹かれるものがある。また来ることにして場所をしっかり覚え、別の道へ歩いていく。

10分後に戻って来て、一休み。そして、この時にようやく気づいた。大虎が入っているということは、それより上の部分は衰弱しているということではないか。写真には写し取れていないが、周囲では頭ひとつ抜きんでている大木。今まで探し歩いていた条件に合致する、初めての木。姿を現すなら、ここしかない。

ただ、じっと見ているのは集中力が続かない。この木を拠点にして、倒木を見たりして定期的に戻ってくることにしよう。

5分後、戻って来る。コメツガ大木に変化はない。水分補給をして、近くの倒木を見に行く。

集中力が続かないので、5分後にまた戻ってくる。そして、コメツガの幹を見上げる。

幹の上を、トラカミキリの姿をした虫が歩いているのが、この眼ではっきりと見えた。長竿でギリギリ届かない高さだが、こちらへ向かって降りてきている。

すぐに長竿を構え、射程圏内に入ったところで下からそっと近づく。

「虫体の直下に枠をコツンと当てて網の中に落とす」

これを一瞬でシミュレーション。相手が小さい虫の場合は成功率がそう高くない作戦ではあるが、この時は不思議なことに、相手がカナブンくらいの大きさに見えていて、いとも簡単にできる自信があった。

そして、シミュレーション通りに実行。衝撃に驚いて跳ねて、そのまま網の中に落下していくのがスローモーションで見える。


キジマトラカミキリ

なんとか出会えた、亜高山の虎。まず日光で出会ってからと思っていたのに、最初に奥多摩で出会ってしまうとは。実際に手にしてみると、幹を歩いていた時との大きさのギャップに驚く。よくぞ網に入ってくれたものだ。

時刻は14時40分、今日の目標が達成できたところで、そろそろ下山することにしよう。

15時20分、ブナ坂で休憩。帰りは巻き道を通ることにする。

15時50分、七ツ石山直下を通過。

16時15分、堂所で休憩。脚への疲労蓄積が意外ときつく、この後も時々休みながら進む。

17時、舗装道路まで戻って来た。ここからバス停まであとわずかなのだが、そのわずかな距離が非常に長く感じる。あまりの長さに、途中で1回休憩してしまったほど。9年前なら考えられないことだ。

17時30分、ようやくバス停に到着。あいにくこの時間帯は便がなく、1時間ほど待つことに。

19時20分、奥多摩駅に到着。亜高山の虎を手中に収めた満足感と、足腰の疲労とともに帰途についた。

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